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才能について

こんにちは、トキガラデザインの稲石です。

朝起きた時の少しひんやりした空気が秋の訪れを感じさせますね。
日に日に実りの秋へと日捲られていく感じが心地良いですね。

松山ケンイチ主演『BLUE/ブルー』を観た

先日観たDVD『BLUE/ブルー』松山ケンイチ主演のボクサーの物語。
勝負の世界の中では、常に勝ち負けが決まり、特にボクシングにおいては才能の要素が大きな部分を占める。

主人公の瓜田はボクシングが好きで努力家だけど、なかなか勝てない。反面、東出昌大演じる友人役ボクサーの小川は淡々と勝ち進み、日本タイトルに挑戦できるレベルに位置している。

劇中で表現された「瓜田にできないことを、小川はすんなりとできて勝ってしまう」部分は、まさしく才能の「あり・なし」という違いでしかないように感じられる。
表面には出さないが、瓜田は小川に対して、ある種の羨ましさと嫉妬を抱えて付き合っている。その部分は非常に人間らしく、気持ちはよく分かる。

残酷な世界である。果たして自分は瓜田・小川どちらに感情移入するのだろうか?

才能について

さて、才能について。

私自身デザイナーやライターという職業から、クリエイティブ業に入っていきましたが、才能については常に考えさせられます。

以前見た島田紳助氏のDVDを例に出します。

天才的な司会や話しの面白さで評判だった元芸人の島田紳助氏の伝説的授業をDVDにまとめたコンテンツ『神竜の研究』でも、才能と努力について触れられています。

その切り口は、才能も努力もそれぞれ0から5までの6段階のレベルがあり、才能と努力の数字の掛け算によって、成果や成功に関わるというものです。

才能が5の人が5の努力をしたら、5×5=25で結果が出て大成功。

才能が3の人が5の努力をしても15で、成功不成功は微妙なライン。

才能が1の人がどれだけ努力をしても5。

つまり、どんな業界でも才能が全て、という視点で授業は進んでいきます。

私が思うに、才能が必要なところで分かりやすい業界は、芸人の世界・スポーツの世界・クリエイターや芸術の世界・もちろんサラリーマンの世界でも営業センス抜群・マネジメント力や金融や株価の読みが冴えてるなどそれぞれの才能はあると思いますが、特に才能で差がつきやすく競争率の高い分野が芸術・芸能・スポーツという専門的分野などではないかと思っています。

小さい頃からの憧れの職業とも言えると思います。現在ならYoutuberで成功するのにも、動画配信の企画・制作・実演などの才能が必要です。

さらに島田氏は続けます。なんでも才能なのですが、ここで大事なのが若い時に夢を追い、自分にその才能があるかないかを知ることが大事だと。しっかりと諦めることが必要だと言います。それには5の努力をしてみないと自分に本当に才能があるか・ないかを見極められない、と言います。そして、その5の努力ができる人は、別の仕事について、自分に向いていて5や4の才能に努力の5をかければ成功する。

5の努力ができる人が、その才能を見つけることが大事だというようなことをおっしゃっていました。

自分自身の5の才能がある分野って何だろう?って思いますよね。

私にとっては何だろう・・・?

才能ってなんだろう?

今のところ4の才能を、その時に必要とされるトレンドに合わせてハイブリッドしていく(時節柄対応)をしている感じです。

デザイン×ライティング×WEBディレクション×映像×ビジネス×IT など。そうすると業界で長生きできると思うんですよね。

何かに飛び抜けて、それに特化していくことも必要ですが、時代が変わりそのスキルが特別必要なくなったら、あるいはAIや自動制作などで複製できるとしたら、そのスキルは価値を失っていきます。需要がなくなりお金が稼げなくなっていきます。

以前の写植という専門技術が印刷業の中では、ひっそりと消えていきました。

島田氏のDVDを例にして、全て才能だよ、という話を前段ではしてきました。

ところが、こんな視点もあります。(私はこの視点でデザイナーを志してなかなか叶わない時代に、救いになりました。)

やはり努力だと。努力である程度のところまでいける。学習の仕方が大切であると言っているんです。

逆に、努力なんだと言う話

誰が書いたか忘れてしまいましたが引用文を掲載します。

私はデザインや絵の才能について書かれた記述だと記憶しています。

「美的な才能を支配する先天的な才能は実はない。それは単純に脳の機能の連携力の問題。視覚的なものを処理する脳のルーティンの連携の問題。作文のように訓練で伸ばせる。」

「情報を整理し、価値の再整理をし、再構築して視覚化する技術を駆使する人をデザイナーという。」

「個人のセンスや美的感性だけではなく、人がものを感じるメカニズムや意味を読み取るメカニズムに基づいた適切な視覚化の方法を知ることにある。」

これによると、デザインの才能やセンスは先天的ではない。そしてそれらは後天的に視覚情報の連携を脳の処理で行う能力を訓練で磨いていくことでデザイン的な能力を伸ばすことができる。という様に解釈することができる。

なるほど。デザイン力は訓練で伸ばすことができる、と。やはり努力だよ、と言う視点です。

果たして、無限の時間をデザイン能力の習得に費やせば、誰よりも優れたデザイナーになれるのか?

 

作家の井上ひさしさんが書いた「自家製  文章読本」の中にも同じようなことが書いてあったのを思い出した。

文章を書くことにおいて、特別な才能はない。あるとすれば「伝統を学ぶ学び方の才能に他ならない」と書かれている。

文章の才能において、作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡(つ)きる。(略)

われわれは常に文章を伝統によって学ぶからである。『自家製 文章読本』著 井上ひさし より引用。

野球も才能の世界。若い時派手に負けた経験が今活きているのかもしれない。

ブログの結論としては

このブログの決着として、私自身はどんなジャンルの仕事においても才能が全てだと思っています。

その点で言うと私の人生を振り返っても、島田氏の理論に軍配がありそうです。

さて、「果たして自分は瓜田・小川どちらに感情移入するのだろうか?」と言う、最初に書いた問いについて、私は主人公の瓜田に感情を移入するタイプの人間となります。

デザイナーとしてもクリエイターとしてもライターとしても、4レベルのそれぞれの才能をなんとか組み合わせて凌いでいる努力型典型的才能4の人間と言うことです。
(※ちょっと良く言いすぎていてすみませんm(_)m)

努力で自らの道を切り開いていける、と信じ、熱意を持って学生や後進に語る立場ではありますが、それでもなお、人は才能のある・なしによってこうも振り回されてしまうどうしようもなく愛しく哀しい存在であることも間違いはなさそうです。

 

そして、誰もが羨む才能があることと、幸せになることは決してイコールではない、ということも付け加えます。

ドラマ北の国から 「遺言」で吾郎さんが語ったこの言葉の引用でこのブログは終わりにしたいと思います。

「金なんか望むな。倖せだけを見ろ。

ここには何もないが自然だけはある。自然はお前らを死なない程度には充分毎年喰わしてくれる。

自然から頂戴しろ。そして謙虚に、つつましく生きろ。それが父さんの、お前らへの遺言だ」

黒板吾郎

・・・金なんか望むな。倖せだけを見ろ。

誰もが羨む成功者が、一つのスキャンダルや失敗で表舞台からひきづり下される今の世の中においては謙虚やつつましさが究極のサバイバル(生きる術)だと教えてくれている様です。

これからの世の中は、人の痛みに敏感な人や、優しく寄り添えると言う才能がスポットライトが当たる優しい時代になっていくのではないかと希望を込めて思っています。

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