プロローグ
どこにでもいる勘違いな男
2021年の8月、コロナ禍で延期された東京オリンピックが開催され、日本チームは過去最高のメダル獲得という結果をもたらした。
五輪開催においては、賛否ありながらも参加したアスリート達は人生を賭けた戦いの中で、素晴らしいチャレンジを見せてくれた。
悲願の金メダルを日本にもたらした侍ジャパンの奮闘に勇気付けられた人も多いのではないだろうか。
その輪の中に私の元チームメイトだった建山義紀はピッチングコーチとして参画していた。
栄光の架け橋を渡っている球友がまだ何者でもなかった建山だった頃、私は、叶わない夢を受け入れられず、現実を認めたくなくて進んだ野球専門学校で彼と出会う。
才能の違いはあったにしても、自分が夢を叶える、絶対にプロになる、という強い意志が
あるかないかは、その後の人生を切り開いていく大きな武器になる。それが分かるのはずっと後のこと、誰に何を言われてもただひたすらに自分を信じて、どんな絶望の日々が続いても一歩一歩歩みを進めることでしか叶わない、夢があるということを。
自分の野球の才能の無さを認めるのが嫌で、選んだ野球専門学校で、建山と出会い才能の違いを知ったこと以上に自分の気持ちがそれほど野球に向いていなかったという弱さを知ったことが1番の理由だった。
のちに才能の違いを知って辞めたというふうに言っているが、シンプルに言って思っていた以上にキツかった。
滋賀の山奥で野球だけの日々に嫌気がさしたことと、学校の費用を自分の貯金でまかなっていたが、後期のお金が払えそうもないことも重なりそれ以上チャレンジするのを諦めたのが本当のところだ。
愛知県から自家用車で迎えに来てくれた父親の車に荷物を載せわずか一年に満たずに実家にトンボ帰りする息子を父はどう思っていたのだろうか?
二人部屋の部屋には、同部屋の彼が使わないであろう買ったばかりの炊飯器を置いてきた。
走り出す車の中から遠ざかっていく学生寮をみながらその瞬間一つの夢に挫折し、18歳の若い身ながら、敗れ去っていく自分の姿がひどくちっぽけに感じられた。
そして、もう二度と野球の様に打ち込める熱い日々が訪れないだろうということも何となく感じていた。
人生劇場はこれからのはずなのに、自分の中では何かが終わり、それはもう二度と取り戻せない青春の何がしかが終わってしまったのだということを強く感じていた。
滋賀県甲賀郡の学生寮を離れて車を走らせると、不意に父が「忍者の里行ってみるか?」と聞いてきた。
気分的にはそれどころじゃないけど、入学してからというもの田舎の何もない学校で野球漬けだったので、せっかくなら、ということで退屈しのぎに行ってみることにした。
ほとんど客はいなかったが、滋賀県甲賀郡の学校に行って、唯一帰りに寄った「忍者の里」だけが思い出として残っている。
今振り返ってみると、挫折して敗れ去った息子、これからの人生が厳しいものになることを父なりに案じて、励ましたかったのかもしれない。不器用で気の利いたことも言えない父だったが、その行為は今になって沁みてくる。
子供の頃から続けた野球も、高校時代唯一のホームランを最終試合で打った頃がピークで、そのあとは野球に自分のアイデンティティを見出すことができずにドロップアウトしていく。
それからは、野球と同じぐらい情熱を傾けられるものと出会うまで、現実世界を漂流する。
デザイン=人生というキャッチコピーを履歴書に書いて、デザイナーになるための就活を突破し、新たな道を切り開くまでに13年ほどの時間を要することになる。
1994年バブルが崩壊して2年、失われた10年が20年になっていく始まりの季節、就職難・モラトリアムの空気を、10代の終わりから20代後半まで、どっぷりと吸うことになる。
(❶ライター前夜につづく)
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