※この記事は「デジタルハリウッドで変わった私の人生」に参加しています。
夢への投資・夢への軌跡
私は子供の頃からプロ野球選手になるという淡い夢を持っていて、夢というものが私の人生にとって重要なファクトだった。
プロ野球選手を挫折してからも、20代は色々なものを目指し、挫折を繰り返した。
私の20代は挫折の連続だった。少し風向きが変わったのは20代後半にグラフィックデザインとの出会い。社会人スクールで2年ほど学んで、就職活動を2年やって印刷会社のデザイナーとして就職できたのが31歳の終わりごろだった。
美大どころか高卒で、実務経験のない私。
本格的にクリエイティブ業界に入ったのは31歳とかなり遅いスタートだった。まずはデザイナーになるという、小さな夢が叶った訳だった。人生の風向きが、ほんの少し変わっていく。
次の夢は、40歳までにデザイナーとして独立し、故郷の愛知県岡崎市に戻って人に請われる仕事をすること。
子供に「夢って叶うの?」って聞かれたら、多くの大人が夢は憧れるものであって叶わないものだよって心の中で思いながら「夢は叶うよ」って答えるかもしれない。自分はとうに諦めているけどね、とも。
私は、自分にもし子供ができたら「夢は叶うよ」って、自信を持って言える人生を歩みたかった。他のものを犠牲にしても、私はどうしても夢を叶えた人生を歩みたかった。
グラフィックデザイナーになってみたものの疲弊していく日々
20代はうまく自分の人生を乗りこなすことができなかった。
31歳からデザイナーになることができた。でも独立するにはまだ道のりは長かったし、自信もなかった。人生の周回遅れ、日本で生きる人生にはやり直しがきかないのか?
そんな時にWEBに出会った。これは年齢・キャリア・学歴・性別、に関係なく誰にでも平等に、努力次第で活躍でき豊かになれるプラットフォームだと思った。
これに賭けてみようと思った。自分の人生を下りのエスカレーターから上りのエスカレーターに乗り換えるには、今この時しかない、と確信できた。
そんな時に、一歩を踏み出して、自分にお金と時間を投資して、自分の叶えたい未来を実現するためのチャレンジをしてみるのだ。上りのエスカレーターであるWEB・デジタル業界へのチャレンジは、きっと間違ってはいないはず。
デジタルハリウッド大阪本校でWEBを学ぶ
2012年当時は大阪市北区 朝日プラザ梅田ビル2Fにあった大阪校。
デジタルハリウッドの看板を見つけて、中に入り薄暗いエントランスには、パンフレットが置いてあった。活躍する卒業生の紹介記事が紙面を飾る。
2階校舎に上がる螺旋階段を登っていく。あの時感じた、不安と期待に浮き立つような気持ちを今も昨日のことのように思い出すことが出来る。
はじめての講義は、杉山学長のメディア概論だった。「すべての産業はインターネットで繋がる」その言葉が衝撃だった。これから始まる映画を観るように、自分がその主人公になれるかもしれない、そんな期待に胸が高鳴った。
今からおよそ12年ほど前、2012年に大阪梅田にあるデジタルハリウッド大阪本校に入学した。WEBデザイナー専攻。およそ半年のカリキュラムで、4ヶ月でデザインやWEBコーディングの学習、架空サイトを作って、それぞれの課題をクリアすると学科として修了。
その後は卒業制作期間に入り、約2ヶ月後に卒業制作発表があって、無事卒業となる。その後は、転職や就職を考えている人は、就職用のポートフォリオを作成して就職活動に入る。
当時を振り返ると、デジタルハリウッド(以下デジハリ)の特徴は、カリキュラム内容的にも就転職~業界で活躍する人材育成という少しレベル的に高めだと感じた。
動画学習の量や進捗スピード、講師のチェックの厳しさなど、カリキュラムを履修して卒業できると、就転職の道が開けてくるのも納得。
デジハリの魅力・人生が変わった理由
「ここが社会人学校か。。」ホテルのロビーのような、おしゃれでラグジュアリーな空間だった。赤いソファーがあり、自習用のPCが点在していて、生徒同士が楽しげに雑談している。楽しげな雰囲気に期待感が増してくる。
20代の中盤から30代にかけての女性が多く、男性は20代前半から40代と幅広い層が通っていた。講師の先生も現役のWebクリエイターで世代も近くて若い人ばかりだった。
校舎の中はWeb業界の活況を表すように活気に満ちていた。
転職したい者、独立したい者、キャリアアップしたい者、クリエイティブ業に進みたい者、そして自分を変えたい者、動機は様々だが皆、更なるステップアップを目指してWebの技術を身につけに来ていた。
ここでの経験は自分の能力の活かし方や、自分が生き残る道に気づくことができた。
そして才能豊かな同期生、刺激を与えてくれた仲間や丁寧に教えてくれた講師の先生。背中を押してくれたスタッフの方々。
ここでの体験は自分の中での宝物と言えるかもしれない。
【スタッフ】【講師】の人たちのこと
少し時間を遡って2011年の秋頃、入学前のカウンセリング兼コース説明の面談を当時の大阪校の責任者、児玉浩康さんにしていただいた。
ソフトな語り口で、私の現状を話すと厳しい面もあるけど、個人の頑張り次第でWEB業界ではまだまだ活躍する場面がある、というように決して無闇に希望を抱かせるような軽い感じではなく、それでも希望を持つことができた。児玉さんに面談していただいたのがよかった。
児玉さんのキャラクターなのか、明るくスマートな中にも成果を出していく雰囲気が校内に流れていた。その後も色々と相談に乗っていただき、良い学校生活が送れたと思っている。
その当時は入学月によってクラスが決まっていて、2012年の1月生の担当講師は瀬口先生。カリキュラムの履修遅れで途中から西村先生に変わる。
最後の卒業制作の担当も西村先生に変わった。複数いる講師をまとめるチーフがイクシマ先生で、年齢的に近かったけど、業界経験としてもかなりの先輩という印象だった。
グラフィックデザイナーの経験があっても、30代後半でWEB業界は初めての業界だったので、転職するのも転職先で活躍するのも簡単ではないが、先生たちは基本的に優しく、それでも厳しい時は厳しかった。年齢や状況に合わせて対応されていて、それが心地よかった。
先生たちは自分より若い先生と同年代がバランスよくばらけていて、そういうのも新鮮だったし、WEB業界自体がまだまだ新しく、これから育っていく業界であることを感じた。
先生たちの丁寧な指導や励ましのおかげで、なんとか背中を押してもらいながらカリキュラムを履修し、卒業制作を発表することができた。
年齢や距離感が近かったことも、私にとっては居心地がよく、いろいろなことも話したり相談することができ、WEBを身につける最初の学習期間をサポートしていただいたと感謝している。
デジハリに入学するときに言われた、「デジハリは、仲間やスタッフ、講師やOBOGとの一生の繋がりが持てますよ」というのが印象に残っている。
SNSで繋がっているという意味もあるし、個別の関係や、仕事での繋がりも含まれている。
私の場合は、就職相談で奥芝さんに大変お世話になったのを覚えている。就活用の応募書類の添削から、内定までなかなかうまくいかない時期にも叱咤激励をしていただいた。
個別に飲みにいかせていただいたり良き兄貴のような存在で、転職期間や転職してからの不安定な時期に、背中を押していただいた記憶が残っている。
私にとって人生が変わっていくきっかけとなったデジハリというスクールは、その環境で過ごしていく中で自分の自信が回復し、デジタルスキルを身につけ、社会の中に自信と期待を持って再挑戦していくことができる場所だ。
車のレースでいう「ピットイン」のような、人材再生工場、夢再生工場だったのかな、と思う。それを支えてくれたのが、学校のインテリアを含む雰囲気だったり、スタッフの方々、講師の先生方だと思う。
デジハリに通うことは、自分のお金や時間を投資することだと思う。良い職場に就職・転職することや、キャリアアップに繋げること、そして自分の理想とする人生に少しでも近づくための選択だと思う。
私が通っていたのはデジハリができてから20年ぐらいの頃で、それまでのデジハリや先輩たちの頑張りの中で、業界内に実績やネットワークができているというのも大きく心強かった。
学校に通い、課題をやるだけでは、トータルで良い結果にはならなかったと思う。その期間は、社会人の第二の青春を体験できるような懇親会や一緒に頑張る同期の仲間の背中があった。
当時大阪校の責任者であった児玉さんともスクール運営のお話しをお聞きする機会があり、当時の距離の近さなどが自分に合っていたのだと振り返る。
もう一つ、デジハリに通って良かったことは、仲間ができたこと。そして同じ業界に縦や横のつながりができること。
社会人の第2の青春・刺激的な同期生
私は、2012年の1月生から2月生に移籍し、その頃は優秀な同期が多かった印象がある。調べたら色々大活躍している人もいると思うけれど、全員書くこともできないので、ピックアップすると、一目見た時から将来の活躍を想像させる人物がいた。
それはもう「只者じゃないな」と。あの当時通っていた人は皆思っていたんじゃないかな。
それは株式会社スタメンの大西泰平くん(今でも泰平くんと呼んでいる)。現在は上場企業の社長になっている。
デジハリ大阪校にはPCルーム以外にも、広いフロワーの中に自習用のPCが何台か設置してあって、入り口にほど近い場所があの当時大西泰平の定位置と言われるぐらいずっとそこにいた印象がある。当然そんなことはないのだが、誰よりも長い時間そこで自習をしていた。
さらに言えば、彼の目線はずっと先を見ているような、我々とは違う高いステージを目指して必死に向き合っている、そんな印象だった。
デジハリの魅力の一つに、仲間との交流の機会がたくさんあったこと。ライバルであり、仲間であるという関係で、ベタベタすることもなく人生の一時期を、たまたま乗り合わせたデジハリという船の中で過ごし、そこからは別々の大海に漕ぎ出していく訳だけど、社会人になって訪れた第2の青春のような体験も味あわせてもらった気がする。人によっては違うかもしれないけれど、私にとってはそうだった。
あの頃の同期は、それぞれが皆意識が高かったような気がする。バックボーンはそれぞれ違うものの、自分の好きなデザインや進みたい業界、作りたいWEBサイト、活躍する憧れの先輩など、いろいろな話題が飛び交っていた。一方で、カリキュラムを履修できるかどうか?みんなについていけるかどうか?ちゃんと就職できるかどうか?などの悩みも尽きない。
そんな中、受講生やスタッフさん、OBを中心に定期的に懇親会などの飲み会が行われた。校舎の隣にある、ベトナム料理屋さんが定番で、そこでの飲み会も楽しかった。
その場所での会話も、不安を和らげ、みんなで頑張ろうというような雰囲気が醸成されたのではないかと思う。校舎内ではなかなか話せない人たちとも会話ができて、私としては十分に楽しんでいた。
思い出深い経験は、学校に慣れてきた5月のGWの時期に、同じ期間に通うメンバー達との河川敷でのバーベキューや夏の暑い頃に、80~90名参加のビルの屋上でのビアガーデン交流会は最高だった。
夕暮れどきに多くの受講生が集まって、縦長10名用のテーブル席が、屋上フロアの横にずらっと並んでいて、会場の半分以上をデジハリ関係者が占めていたと思う。振り返れば、壮大な集まりで、いかにも大阪っぽいな、と今では思う。東京や名古屋ではあまり見かけない光景だ。
デジハリで出会った人たちとは、その後も仲の良い数名としばらくは食事に行ったり連絡を取り合ったりして付き合いは続いていた。
何名かとはその後も一緒に仕事をしたりして、仕事の面でも繋がっている。卒業してからもお互いSNSで繋がっている人も多いので、時々お互いの近況なども知ることができた。
ここまでのデジハリの記述は、あの当時の受講生の雰囲気を感じてもらえる内容だと思う。厳しくも楽しかった、という部分は頑張っていた人たちには共通しているのかなと思う。
ここから先は、私個人の部分。当時38歳、高卒、WEBの実務経験なし、20代は新聞販売店に勤務していたり、居酒屋で店長をやってきて、直近のグラフィックデザイナーの経験が6年半というキャリア。
これを読むあなたが、採用担当だったらどう評価するだろう。それが38歳時の私の現在地点だった。
当時は、フリーランスも勧められたし、WEB系の契約社員も勧められた。あるいはグラフィックデザインの能力を活かした、バナーやスマホケースのデザインを主とするEC会社への就職など。
どれも現実的ではあったが、心に触れてくるものはなかった。私がその時の転職で考えていたことは、WEB業界にチャレンジすることで、人生のキャリアをリセットしたかったこと。
もっと大袈裟に言えば、キャリアのマイナス要素を価値ある経験としてプラスに、パチンコで言えば確変、トランプの大富豪(大貧民)で言えば手札の価値がひっくり返るような、自分の人生で奇跡を起こしたかったのだ。
だから、自分の中で決めた40歳までに独立するという夢、それを叶えるために、WEBの業界でしっかりと経験と実力を付ける必要があった。そして、グラフィックデザイナー時に31歳から始めた私は人の3倍速で成長し、WEBに移ったら5倍速で成長したかった。そうしないと同年代との差が埋まらない。無茶かもしれないが、無茶を通すのも自分が決めた人生だ。
それを叶えられる、5倍速で成長できる場所を獲得する。多少の無理はしょうがない。
WEBディレクター前夜 / キングスポイント
キングスポイントという言葉がある。
主にスポーツで使われるが、試合中のある場面、このポイント(点数)をどっちが取るかによって試合の勝敗が決まってしまうような場面があるという意味だ。
そのキングスポイントを人生に当てはめると、おそらく男性の36歳頃から40代前半の転職では、人生という勝負の中での勝敗が分かれてしまうキングスポイントなのかもしれない。
もちろん例外はあるが、40代を過ぎると圧倒的に転職は難しくなるので(特にWeb業界の未経験者では)、ここが勝負どころというのは間違いない。
結論から言ってしまえば、私はこのキングスポイントをものにした。40歳を前にWEB業界へ転身したことで、ビジネスマンとしての勝ちを辛くも拾ったのだ。
私は、20代から30代の頃、学歴や実務経験が少ないというハンデを乗り越えていくために、就職活動を人一倍とことん頑張ってきた。就活のバイブル2冊。中谷彰宏著『面接の達人』杉村太郎著『絶対内定』などを毎年買ってはブラッシュアップを重ねる。
差別化という意味では、ポートフォリオやWEB業界や応募企業への想い、自分自身のPRを磨く人が大半で、就職活動全般に圧倒的な時間と労力をかけるのは実は理に適っているのかもしれない(ポートフォリオのクオリティはすぐには上がらないから)。
書類選考の文章表現と量とクオリティ・面接のクオリティ・お礼のハガキ(アフターフォロー)まで、その能力はそれ以後の選抜という機会で遺憾無く発揮されていく。
38歳で名古屋に本社を置く、京都に支社を出すITベンチャーに転職が決まる。現在はシェアリングテクノロジー株式会社という社名に変わり上場も果たしている。
ゲームチェンジ
グラフィックデザイン・印刷業界からWeb業界に転身した私が実感したのがこの言葉だ。
ルールや評価やプロセスや出世のスピードなど何もかもが違った。必要とされるスキルが違い、そしてその仕事で使う知識やスキルが刷新していくスピードが違い、さらに平均年齢が圧倒的に若いということ。
ゲームのルールが変わったのだ、自分自身のこれまでのスキルセットをカスタマイズし、アップデートし続けないといけない。どうやらそれが勝負を分けることになりそうだ。
職業を変えるためにデジハリというWebの専門学校に入り、カリキュラムをクリアし、Web業界に38歳で転職した。
これまで培った、デザイン力・ライティング・就職活動のテクニック・面接でのコミュニケーション力・ポートフォリオの企画などの全てを動員し、厳しい中途採用をクリアし、ITベンチャーに転職を決めることができた(入社後大変な目にあったが)。
その時に2回の面接をして頂いた会社の社長からは「うちのディレクター陣と比較しても100人に1人の存在だと思っています。」と大変評価していただいた。努力は報われると言われるが、私の場合は就活の応募書類や面接力のスキルが、人生のキングスポイントで勝ちを拾う結果を導いた。
転職活動はじっくり4ヶ月ほどの時間をかけた。複数の会社から内定をいただき、そのうちの2社で入社体験をした。選んで選んでその中で一番希望条件が揃っている会社に決めた。
Web業界は成長業界だから、上りのエレベーターだと思ってもらっていい。少し遅れたスタートだけれども、これまでのスキルを生かして経験を積んでいけば将来は明るい。
2013年の2月1日が京都支社への初出社だった。6時半頃だったと思う。オレンジ色の帯が広がり、次第に明るくなっていく。冬の朝日が登り、凍てつく澄んだ空気の中に大阪の街が抒情的に見えた。
少し早めに出ようと思い、6時半頃には京阪線の千林駅ホームにいて、朝日が登るところを見られて、不安な気持ちもあったが、「もう、大丈夫。」訳もなくそんな気持ちに満たされた。
これまでの20年間の学歴や職歴のコンプレックスみたいなもののしがらみから解放され、これからは実力だけで評価されるしがらみのない自由な人生が始まることを意味していた。
(※振り返ると、このコンプレックスは根深かった。多くの人はそのコンプレックスが一生続くことも。それ以降の自分の表情が変わるぐらい、大きな出来事だった。)
故郷に戻って活躍したい
ITベンチャーの京都支社では、協力会社であるWEB制作会社に出向という形で、WEB制作やWEBディレクターの仕事を1からみっちりと学ぶことができた。
高いレベルと知識やスキルは、短い時間で身につけるにはそれなりに強い負荷がかかる。自ら意図して会社に入ったものの、その8ヶ月という期間は、なかなかに大変なものだった。
Webはチーム戦だった。ディレクター・Webデザイナー・エンジニアが中心で、そこにカメラマンやライター・マーケターなどの専門職が案件ごとにアサインされていくチーム戦の様相だった。
諦めることと、選択すること。選択することで道が開けてくる。それを知ったとき、Webディレクターという自分の天職とも言える職業に出会えたのだ。
デジハリに通ったことで、色々な人に出会い、いろんな体験をして人生が変わっていった。先輩達の成功体験や成功事例が我々を勇気付けた。
Webを学べば未来が開ける。Webの実力を身につければ、自分の可能性が開ける。デジハリにはそんな明るい空気が充満していた。ここでもう一度クリエイティブ業界で頑張る意欲が湧いてきて、自分が独立後に目指すスタイルが固まった気がする。
ここから40歳独立まで、追い風を受けて、急激に人生が動き出す。
京都支社での経験は、およそ8ヶ月間だった。自社サービスがメイン事業のため、そのポータルサイトやLPサイトを200から300サイト作る目処が立ったことで、本社に移籍して、今度はWEBマーケティングを運営していくことになった。
WEBマーケティング部では、SEO施策やWEB広告を出稿しながら、自社サービスを育てる業務が担当。サービスは、お困りごとを解決する業者とお困りの人を繋ぐ、マッチングサービスを運営していた。
名古屋本社への転勤が決まり、私は、7年ほど住んだ大阪を離れ、愛知県の故郷に戻ることになった。23歳の頃に愛知県を出て東京に出て、それから15年が私の武者修行期間と言える。
この転勤という機会がなければ、ひょっとすると大阪で独立し、うまくいかなかったかもしれない。それどころか地元愛知県に帰ってくる機会をずっと得られなかったかもしれない。
運命や縁やタイミングという、言葉にすると曖昧だけど、そういうものも確かにあるのだと思う。
31歳でデザイナーになった時に願った夢の一つを、改めて振り返ってみる。
それは「40歳までに独立し、故郷に戻って活躍すること」だった。
名古屋に戻って、独立・人生の流れが加速する
ITベンチャーのオフィスは、名古屋のオフィス街丸の内にあった。朝、通勤電車に乗って8:30から業務がスタート。
上場準備に入っていたこともあって、その頃の勤務時間は一日8時間だった。給与は下がったが仕事時間も圧縮され、束の間のサラリーマン生活を楽しく過ごすことができた。
仕事中は、近くにいる上司が厳しく、常にピリピリした緊張感が続いた。上場を目指していたので、広いオフィスの中心に現場の責任者でもある取締役や社長のいる席の付近では、各部署の部門長などが集まり緊張感のある会話がなされていた。
定期的に部門長の降格人事や昇進人事があり、スタッフの中でも部署異動があった。
京都採用でWEBディレクターとして入社し、本社に移動になってからはWEBマーケティング部に所属していたが、経験としては貴重なものの、クリエイティブの要素がなく、だんだんと退屈な時間に感じていた。当然、WEB業界と言っても制作だけではなくWEBマーケティングや顧客管理のMA(マーケティングオートメーション)からのインサイドセールス業務もある。
さらには自社サービスを開発するようなSaaSで売り上げを作る会社もある。ITベンチャー、WEBマーケティング、自社サービスという経験を1社で経験することができ、WEB周りのビジネスや新規事業の成り立ちをデザインしていき、それを営業し・運営していくというビジネスの全貌を見られたのは経験として大きかった。
とはいえ、WEBマーケティング部から顧客や業者との契約関係を管理するリーガルチームに移動になったところから、名古屋での転職に向けての気持ちが動き出した。
会社での出世の可能性がなさそうだというのと、あまり会社への愛着が感じることができなかったので、独立前のステップとして、名古屋でも強いWEB制作会社への転職に向けて就職活動を始めることにした。
その頃の私の場合の就職活動は、戦略的就職活動と位置付けるようになっていた。自分の価値を高く売り込み、良いポジションを獲得し、さらに次のステップ(独立の為)のコネや経験や人脈や足がかりを作れるような会社のディレクターのポジションを獲得する。当然役職や給与も満足のいく場所で。
結果から言えば、その時の私にはベストな会社に内定をいただいた。同時に他にも1社内定をいただけた。転職活動は3ヶ月ほどだった。
名古屋のWEB制作会社からフリーランスとして独立
名古屋の老舗WEB制作会社に転職して、ディレクターとして活動した。23歳で愛知県を出て、東京・大阪・京都と移動して名古屋に戻ってみると、不思議な感覚に気づいた。
水が合うとはこのことか、と。東京・大阪・名古屋を比較して制作業界ではこんなことが言われる。東京はいつまでにできる(期間)?大阪はいくらでできる(値切り)?そして名古屋は誰とやる(繋がり)のか?というようなことが。
愛知県の広告代理店や大手企業の仕事は、これまでの継続か人の紹介などで続いていく。ツテというのがあると仕事は継続的に続いていく。独立するならやはり愛知県だと確信した。
制作会社で、大手広告代理店との付き合いや大手企業のWEB制作や運用の経験を経て、
2016年の10月にトキガラデザインとして独立する。
場所は岡崎市。故郷で開業することにした。
それ以後は、岡崎市のある三河地方と名古屋を営業範囲として、中小企業を中心に制作やコンサルティングの仕事で支援をしていく。
独立して5年目にコロナ禍に入り、事業の方向性が一変した。受託の制作だと、外部環境によってクライアントの状況も影響を受け、制作業もさらに影響を受ける。
このままでは、自分の理想とする働き方や目指すビジョンが達成できない。そこで、クライアントワークでありつつも企業の経営の上流のところから支援をしていく「デザイン経営」という手法に目を付けて、自分のキャリアを変えていくことに決めて動き出した。
デザイン経営・DXDキャンプとの出会い
2018年に経済産業省・特許庁による「デザイン経営宣言」が出された。それによりデザイン的な発想やデザイナー自体が経営の上流工程に関わっていくことによって、ブランディングやイノベーションを起こしていく、ごくごく簡単な説明になってしまうが、日本の産業競争力を強化するためにデザインを活用した経営手法と言われている。
それによって、高度な能力を有したデザイン人材(専門的デザイナー以外も含む)が経営やこれからの経済発展に必要になってくる流れが起こってきている。
2018年以降、変化していくデザイン経営の実践。
2023年の7月に特許庁から公開された「中小企業のためのデザイン経営ハンドブック2 未来をひらくデザイン経営×知財」を見ると、中小企業向けに書かれていることもあり、私にとっては、より身近な事例や取り付きやすい内容になっていた。そこには経営者のアイデンティティの重要性や人格形成という視点が大切だと書かれている。デザイン経営の好循環モデルとして、人格形成を軸にして、文化醸成と価値創造を循環させていくという内容。デザイン経営についての記事を書くには文章量が足りないので、あくまで補足です。
その頃からデザイン経営の専門家という形で、活躍していきたいと思うようになった。デザイン経営を推進していく人材を高度デザイン人材と呼び、デザイン的な能力以外にもデジタルスキル・ITの知識・DX化などのスキルもこれからのビジネスには当然必要になってくる。
私は、デジタルハリウッドを卒業して、WEBやデジタル領域の専門的スキルを持つバックボーンが強みになっている。
DXDキャンプ@との出会い
デザイン経営っていうのがバズワードになって、なんだか良さそうな手法が出てきたぞ、という雰囲気はあったが、実業とつながらず良くわからない部分も多かった。自分のやってきたデザインと広義のデザインの違いとは?コミュニティデザインとは?DXにおけるUXとは?地方でのデザイン経営とは?その辺りをもっと学びたかった。
デザイン経営や広義のデザイン活用を深く学び、自分の事業で展開していくために、高度デザインDX人材育成スクール「DXDキャンプ@」を受講することにした。
自分の人生をデザインしていくこと
私自身は、2年前に東京に本社があるデザインコンサルティングのトリニティ株式会社による高度デザインDX人材育成スクール「DXDキャンプ@」を受講し、学んだことが確かに今につながっている。
オンラインレクチャーの内容も学びが深いものだったが、特に講師の方と運営責任者の方に実施していただいた、メンタリングセッションによって、その後の歩みとアクションが明確になった所が大きいと思う。
・広義のデザインを使って何をするか?
・課題に対してファシリテートしながらどう関わっていくか?
・そして、デザイン思考を活用したり、デザインに関わりながら自分の人生を理想の状態にいかに近づけるか?
そういう広い視点を得られたことや、切磋琢磨できる仲間とのコミュニティが継続していく楽しさがあって、私にとっては大きなターニングポイントになった。
※DXDキャンプ@とは、デザインコンサルティングファームのトリニティ株式会社による高度デザインDX人材育成スクールです。大手企業のデザイナー・エンジニア・マーケッターなどの有望人材をさらにリスキリングやアンラーニングを実施し、広義のデザインやデザイン経営・ソーシャルデザインのフィールドでの活躍とこれからの経済を引っ張っていくデザイン人材を育成していく高い志のもと運営されているデザインコミュニティです。
https://dxdcamp.com/ DXDキャンプ@ HP
2024年3月6日、現在のこと(デジハリを卒業して12年後)
私はトキガラデザインという屋号で独立して以来、愛知県の中小企業を中心にブランディングとWEBマーケティングの支援を提供していた。
トキガラとは時節柄から発想し、時代の変化に常に適応していき、常にクライアントの最も頼れる援軍でいたいという想いを込めて作った。
そしてここ5年ほどはデザイン経営の専門家としてセミナーや企業支援を行うようになり、活躍の場をより経営に近いところまでを相談されるデザイナーになっていた。
2024年3月6日に中部経済産業局(経産省 中部局)主催 の発表会で事業を行なったデザインプロデューサーとして登壇していた。
デザイン経営事業のプロデューサーとして選抜され、今後中部地区で推進していくためのフロントランナーを期待されている立場というのを運営会社様から、後から聞くことになる。
2024年3月6日(水)という1日が、デザイナーの私にとって非常に大きな1日になるのではないか、そんな感じがしていた。
現在は、愛知県よろず支援拠点のコーディネーター(WEB / IT / デザイン経営専門)や中小機構 中部本部の経営アドバイザーなど公的機関の立場もいただきながら愛知県を始め、中部地域の中小企業やデザイナーにデザイン経営やWEBマーケティングを広くインストールすることに力を入れている。
時間はかかるけれども、夢は叶えることができる。それを実践できたと思う。
38歳でITベンチャー(WEBサービス会社)に転職して、自分なりの形で成功していく。
そういう事例が、いつか自分がこれからの後輩たちの希望の存在になっていけるように頑張ろうと思っている。
◆次の夢は?
この長い記事を書いてきて、改めて自分の人生には夢という指針が大きく、自分を牽引してきたのだなと思う。時間とお金をたっぷりと投資してきたんだなと思う。
20代は人生をうまく乗りこなせなかった。30代は夢に手をかけたものの継続が難しく疲弊し、環境が大切だと知ったこと。40代は独立し、世の中や人間のことや人生の解像度が急激に高まったこと。40代後半の今は、少し肩の力を抜いてやれているのかなと思う。一段一段着実に階段を登っている感じだ。
それから、自分の長い夢への旅路を文句も言わずに見守ってくれた両親や兄、支えてくれた友人達、仕事や人生の各場面で良い影響や力を貸してくれた方たちに感謝を申し上げたい。
次の夢
・仕事の面では、デザイン経営やソーシャルデザインを専門領域として、国内トップクラスのデザイナーになること。
・自分の本を出版すること。
・夢を叶えるために犠牲にしてきたプライベートを、今になって取り戻したいと欲張ること。
3年前に父が他界してからは、人生の価値観がずいぶん変わってきたのを感じている。急に寂しくなったのかもしれない。
当然、自分にもし子供ができたら「夢は叶うよ」って、自信を持って言いたい。一緒に頑張ろうね、と。
若い頃に願った夢は、デジハリを経由したことで、叶えることができて人生を変えることができた。日々、その嬉しさを味わっている。今、何が欲しいかと言えば普通のものが欲しい。
普通のものほど実は難しいのだ。
あの頃になりたかった自分になれたか?そんな質問があったら、きっとこう答える。
ーー想像以上の自分になってきたと思います。幸せです。どうせなら、もっと大きな妄想を描けばよかった、とも。
※この記事は「デジタルハリウッドで変わった私の人生」に参加しています。
◆時柄前夜あらすじ https://tokigara-design.com/cms/2021/09/27/tokigara-storyvol-1/
時柄前夜とは、全部で8本の記事で構成されています。トキガラデザインとして独立するまでのことを創業6周年の記念の時に開始した連載ブログです。現在は愛知県~中部地区において、デザイン経営の専門家として公的機関からも今後を期待されるデザインプロデューサーになるまでの軌跡が書かれています。
プロ野球志望の学生から、挫折、フリーターとなって、いつしかメインロードから外れてしまい、希望が描けなくなっていた頃から、本来やりたかったクリエイティブ職へ人生をかけて進むことになります。ライターからグラフィックデザイナー、(デジハリに通い)Webディレクターから独立までの20年の人生を凝縮させたものです。全然まだ成功者にはなれていませんが、28歳の頃にグラフィックデザインの専門学校に通ったところからカウントすると20年で、自分が夢見たデザイナーとしての状況に近づいています。
振り返れば、大阪のデジタルハリウッドに通い、デジタル業界の追い風にうまく乗れたことが大きいと思っています。38歳でデジハリに通ったことで人生の流れを変えることができた、本当にそう思っています。
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