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「時柄前夜(ときがらぜんや)vol.5」 ❹トキガラ前夜(最終話)

これまで時柄前夜として連載してきたブログ、今回はトキガラデザインが生まれるまでの最終話となります。

居住は岡崎に戻り、職場は名古屋という、学生時代に描いた未来図が叶った世界に住む私。

夢を見ているような高揚感の中、年商4兆円を誇るグローバル企業D社のWEBサイトディレクションや1兆5千億のT社の3社コンペ、誰もが知る上場企業のWebディレクション、名古屋の高層ビルの中で繰り広げられる、大手広告代理店との桁外れな金額の交渉。

この期間に語られることは、WEB業界という追い風を受けて、名古屋で跋扈する稲石。

名古屋に転勤してきて、ITベンチャーから独立を見据えてWEB制作会社に転職をした。

WEBディレクターとして、トヨタ系列の上場企業から、中部の上場企業、大手広告代理店との仕事が中心になり、会社員としては、一番充実していた時期だと思う。

オフィス近くの交差点

 

よく例えられる話しでプレイヤーとしての器を、車の排気量に例えることがある。

軽自動車の700ccクラスだった自分が、WEBに移動して排気量を1800ccのプリウスクラスまで伸ばした時、自分を大きく見せるためにターボエンジンが必要になり、独立するために私が選んだターボエンジンが森というデザイナーだった。

ですが、そのターボエンジンは壊れやすく、いい時と悪い時の差が激しかった。結果的にそのターボエンジンとは、諸々の理由があって離れることになった。

その後もいろいろなタイプのデザイナーと組んだものの、私が重要視するのが、天才的なデザイン力ではなく、意図を汲み80点以上のアベレージを出し、調子が悪い時でもゲームを作ってくれる、精神的に強いデザイナー。

そこからは、ありのままの自分の排気量を2000ccから3000ccまで、中小企業経営者の集まる団体の中で、経営者としての能力を研鑽し、人間的な部分という基礎からグレードアップを図ることにした。

地元に戻って働く日々の気持ち

15年ぶりに名古屋の職場で働くことになった私。JR線を使って名古屋へ通勤する。

通勤電車の中には同級生が乗っていたり、同級生の家族が乗っていたりするのだった。そんな些細なことが帰ってきたという気持ちにさせた。

両親と同居していたので、出社する時には「行ってきます」「行ってらっしゃい」という掛け声も何年かぶり、学生時代ぶりぐらいの習慣が戻ってきた。すでに引退して、庭の手入れをしている父親に声をかけて出かけていく。今思えば、そういうなんでもないことが幸せだったのかもしれない。

名古屋に転勤してしばらくしてITベンチャーを退職し、独立するために、WEB制作会社に転職をした。

キャリアの中では一番条件がよかったし、クライアントのクラスも一流だった。

名古屋に移ってからの私は、水を得た魚のように、勢いよく泳ぎ回った。

トキガラデザイン初期メンバー森との出会い

デジハリの友人に紹介してもらった天才デザイナー森。空間・建築デザイナーからグラフィックまで、なんでもござれのMrデザイナー。

森との出会いで、人生の歯車がカチッとはまり動き出していく。

トキガラデザインという屋号を提案したのは森だった。コンセプトを決めていく時にトキガラデザイン(時節柄からの着想)はとてもしっくり来て、いやらしい話がお金の匂いがしたのだった。

その後、森と二人のコンビで、森が空間デザイン・グラフィックデザインとイラストなどのビジュアル面、私が経営・ディレクション・コピーライティングなどのテキスト面を担当した。

理想的な分業だった。

国内トップのクリエイティブカンパニーを目指し、名古屋ではトヨタ系などの大手の仕事や上場企業のコンペ、東京有数ホテルのWEBサイトコンペなど、二人を軸に戦った。自分たちコンビの力試しのつもりで、どこまで結果が出せるか試すように。

手応えを感じる部分もありながらも、どこかで不安な影も感じ取っていた。

私の中では前途洋洋な気分の中で、徐々に森との関係には綻びが出始めていた。

森と二人で、国内トップのクリエイティブユニットになり、賞をとり、森のデザイン力を最大限に活かして、世界にも出ていきたい。

そんな夢物語を夢想していたのがこの頃。

ところが、現実はそう甘くいかないのだった。

残念ながら不採用。イラストを活かした力作だった。

パートナーの離脱、本当の意味でトキガラデザインがスタートする

岡崎に戻ってきてからも2年間は車のない生活だった。どこにいくにもママチャリで疾走していた。

東京・大阪で生活していた私には特別車は必要ではなく、15年以上も車に乗らないペーパードライバー状態だった。岡崎といえども車がないと移動手段は非常に困る。だけどしばらくは自転車で行動していた。

そもそも事務所に行くのに40分かかっていて、そこから客先に行くのにさらに30分かかるなど、高校生のチャリ通学のような現状だった。だからその頃はとても痩せていた。

車のないようなゼロの状態から、事業や自分の人生を再構築していく現状が、何かドラマの主人公のような気持ちにさせた。

いつもそこから。いつもゼロ状態から自分一人で積み上げてきたキャリアと人生。

地元に戻っても、顧客からの信頼や地元での仕事のポジションも全くのゼロからの積み上げだ。

まず最初に、顧客層に設定した中小企業の社長のニーズを知るところから再スタートした。高いスキルと知識は持っているが、それらがあまり地方ではマッチしない。要は求められていないのだ。

仕事としての継続性を持つには、顧客のニーズに適応していくより他ない。これまでの活動の仕方を根本的にかえる必要がある。

だから、友人の勧めもあり、中小企業家同友会という、経営者が学ぶ団体に加入することにした。他の社長の取り組みや経営的な学びを共有し、個人的にも深くお互いに知るために、深く付き合っていく。

そんなやりとりを2年間続ける中で、地方の中小企業の社長がどんな課題を抱えていて、何を求めているのか。そんなことが少しづつわかってきた。

社長が何を求めていて、私が何を意識して提供しているのかは、もちろん企業秘密であり、飯の種だ。

ニュータイプもオールドスタイルもなんでもござれだ。

経営が軌道に乗ってきた、一体なんのために独立し、なんのために事業をするのか?

トキガラデザインとは、時節柄から着想した屋号だ。

変化する時代やニーズの中、常に変化し最適なクリエイティブを提案する、というのがコンセプトだ。

コロナ禍にはコロナ禍に適したスタイルに変化してきた。これからも変化を続けていく。考え方やスキルすらも過去のものは棄て・新しい物を身につける。

大手の仕事をやっている時に、やりがいと共に少し感じていた虚しい気持ちは、お客様の顔が見えないこと。自分のやった仕事による影響を見て仕事がしたい、というのが根っこにある。

顔の見える中小企業の社長とともに、パートナー的に事業を支援していくスタイルが心情的にも合っている。

やはり、関わる人たちを豊かにし、幸せにしていきたい、それをデザインやWEBの力で叶えていきたい。

デザインやクリエイエティブが果たすべき役割、それらの意味を考えていくことから、自分の仕事やこれからの活動意義がある気がしている。

創業6期目を迎えます

常に先を見据えて

トキガラデザインという形で独立し、色々な人や出来事との関わりの中で、自分のポジションが確立されてきた。

どれぐらい出来るかや、どういう部分で求められているのかもわかってきた。

トキガラデザインは、2021年10月の17日で創業丸5年を迎える。

今後は少し規模感のあるお仕事や企業様との付き合いを増やし、法人化し、スタッフを採用していく予定である。

いくつかの指針があるとすれば、

気持ちを大事にすること、時代感を掴むこと、デザインの意味を問い続けること、自分らしく生きること、そしてそのらしさも疑うこと、デザイナーの前にまともな人であること。今の一瞬に集中すること、家族や仲間を大事にすること、夢を持つこと、自分を好きでいること、仕事を好きでいること、岡崎を好きでいること、毎日を大事にすること、弱き人の気持ちを考えられること、人を育てること、自分自身も常に学び変化し成長すること、スポーツをして健康的に活動すること。

書いているうちに、これらはデザイナーや経営者云々というより、いかに人として生きるか、という生き方の問題だと思う。

どんな風に事業を展開していくかは、どういう風に生きていきたいかに繋がっている。

生真面目に、自分らしく、丁寧に。

人生=デザイン。

まだまだこれから。

道半ばだ。

時柄前夜   (完)

エピローグに続きます。
「時柄前夜(ときがらぜんや)vol.6」 ❺エピローグ「稲石から君へ」
https://tokigara-design.com/cms/2021/10/15/tokigara-storyvol-6/

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