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「時柄前夜(ときがらぜんや)Vol.3」 ❷グラフィックデザイナー前夜

帰省時の同級生たちのリアルな反応

「お前大丈夫?そんなんで。」「将来性ないだろ。」「普通デザイナーって芸大出た人じゃないとなれんだろ」

「お前絵描けたっけ?」酒が進み、絡んでくる。なんでそこまで言われる必要がある。私にはこう見えた。自分の選んだ道が間違っていないんだということを言い聞かせているように。

 

同級生に言われた言葉がしこりのように残っていた。

「そんなこと、俺だって分からん。絶対大丈夫だ」って言い切れる自信がこの時には全くなかったからだ。

29歳になっていた。

そろそろ30歳。地元の同級生は皆、収入の良い会社に勤め、結婚をし、いい車に乗っていた。子供が出来、週末は家族ぐるみで仲間と一緒に過ごす。幸せな人生だ。愛知県にいてその環境なら将来も安泰で、人生ゲームなら、成功して上がりの人生だ。

横浜から埼玉の所沢に移って1年が経っていた。

相変わらずのバイト生活で、将来は見えなかった。暗闇の海上に地図なしの船で彷徨うみたいに。

地元の同級生たちとの状況のコントラストは感じたが、不思議と嫉妬も劣等感もなかった。

本当に不思議だけど、むしろ進んで同級生達と会っていた。

ここから人生巻き返したら、気持ちいいだろうな、という空想が妙に気持ちよかった。

 

状況には、少し変化があった。

池袋にあるヒューマンアカデミーの社会人コースでDTPソフトとグラフィックデザイナーコースを受講した。最初はイラレ・フォトショ・クォークエクスプレスの習得だけのために通うつもりだったが、女性のスタッフに強く勧められて、グラフィックデザイナー実践講座に1年間通うことになった。

今振り返ってみても、この期間は人生の一つの岐路だったかもしれない。

二度と這い上がれない非正規の沼に落ちていくか、正社員として会社に守られ、固定給と正社員というポジションと経験を得られ、次のチャンスを狙える位置に付けられるかの瀬戸際だった。

長いフリーター生活を過ごす中で、就職氷河期で新卒採用で社会に入っていくプラチナチケットが既になく、世間一般の尺度では、年々プレイヤーとしての価値が目減りしていく状態で、それはつまり、プレイヤーとしての賞味期限が迫っていた。

同世代の仲間と切磋琢磨。デザインコースではビリッけつ。コース終盤になって楽しくなってきた。

人生の転機が、デザイン専門学校での出会い

専門学校のデザインの先生との出会いが大きかった。

キャラも良かった。今まであったことがないタイプの人だった。

O先生。過去にはTBSの番組ロゴを作ったり、ファミコン通信の雑誌のビジュアルを作ったり、グラフィックデザイナー経験30年の一流の先生だった。

東京の青山。田中一光先生の事務所近くに事務所を構え、そこから移転はしたらしいが、とにかくプレイヤーとしての実績も素晴らしく、講師としても数多くのプロを輩出している先生だった。

教えるスタイルが変わっていて、(リンダ)というオネエキャラで「もう~」とか、「リンダって呼んでくれなきゃいや」とか「リンダ惚れちゃう」とか場を常に笑いで盛り上げ、デザインを親しみ深くしてくれた。

デザイナーとしての先生との距離をそのようなキャラ設定で縮めてくれていたんだと思う。女性の同期はどう思っていたか分からないけど、男子は概ね先生が好きだった。

「稲石くん、デザイナーって何をする人?」

「・・・顧客の問題を解決したり、整理したりすることです。」

「硬い!!間違ってないけどそうじゃない。」「デザイナーの仕事は人を幸せにすること!」

「!!!」

「デザイナーとして、お客さんを幸せにしたり。公共のビジュアルや環境をデザインして、豊かな世の中にすることもデザイナーの仕事。大きい仕事をして。世の中を豊かに幸せにできる仕事だよ。」

「!!!」その言葉に痺れてしまったのを今でも鮮明に覚えている。

そうだ、デザイナーは人を幸せにする仕事。そんな仕事が出来たら最高だよね。

自分の人生のリカバリーはこの道で成功することで果たしたい。そんな思いが湧いてきた。

それでもデザイナーには簡単になれない。就活を2年続けた。

デザイン専門学校を出て、いくつか書類を送りいくつか面接を受けてみて、今の力と応募書類のレベルでは希望する会社に入るのは不可能と感じていた。このアプローチではダメだ。

デザイン力の力を日々高め、ポートフォリオ(作品集)のクオリティと数を増やしてブックにまとめ、就活・書類・面接スキルも同時に身につけていく戦略を取った。

就職活動を始めて、途中就職期間を挟んだりしたが、24歳から39歳の中で、何度も就職活動や転職活動を行い、正社員最初の会社に入社するまでの2年間と、1社目を半年でクビになり、再度奮起して半年後に再就職したデザイン学校を卒業してからの3年間。

同期や普通の人なら諦めてしまうような、現実という名の壁を諦めずに続けて切り開いて行った期間がこの期間だった。

本当によく続けられたと思う。応募書類や面接の能力も訓練で上げていくことができる。私が道を切り拓けたのは、デザイン実務や学歴や年齢のハンデをそういう努力で克服してきたから。

◆この動画は、不可能を可能にしてきた就活の「経験を話た内容なので、その頃取り組んだことなどを残してます。良かったらどうぞ。↓↓↓

『デザイナーの就職活動について就活で望む道を切り開くの4つのポイント教えます!』

面接は緊張して苦手という人も多い。そういう場面でこそ差をつけやすい。入念に準備をし、面接の現場では相手の心に棲むぐらいまでに一発のチャンスにかける。

就活を乗り越え就職が決まる

大阪に本社がある印刷会社を母体とした、SP広告専門の広告会社の東京支社に就職が決まった。

給与・ボーナス(じきに消滅するが)育成理念、社会貢献活動、実績や作品のレベル。

東京の名の知れた広告制作会社と比べると1.5段ぐらい落ちますが、大阪では大手代理店経由の仕事もあったり、大証1部の会社だったり、パナソニックグループの社内報などの仕事を受けていて、輪転機・枚用印刷機・平版などが入る印刷工場・アーカイバルセンターなど本社以外に自社の施設が4箇所持つなどの経営として安定している会社だったのも選んだ理由の一つだった。

 

入社してみると、東京支社は全て大学卒業者ばかりで、私と同時期に中途入社した同期は5歳下の女性で大学を卒業後5年間のデザイン実務経験がある人材だった。その時私は31歳から32歳になる時期で、デザイン実務はわずか半年だった。

その差を埋めたのが、ポートフォリオ・応募書類の完成度と量・2回の面接での評価が埋めたことになる。

◆32歳の誕生日に兄から誕生祝いと就職祝いのパーカーのボールペンが届く。

「人より遅いが就職祝いの品だ。とにかく就職できたのは良かった。だが人より遅れている。5年ぐらい人の3倍働き・3倍努力すれば追いつくだろう。」とにかく頑張れという体育会系の激励をもらった。

よし、人の3倍努力しよう。今、頑張るときだ。何か人生が動き出してきた気がする。

野球をやっていた時の気持ちが戻ってきた。もう一度生きなおそう。

就職後の生活、デザイン修行時代

東京の赤坂にある事務所で仕事の日々。朝は1時間半かけて出社し、さらに他の人より1時間早く着き、書体のトレースやデザインのトレースをする。

全員のゴミ箱からゴミを集め、簡単な掃除をする。先輩デザイナーの作品の出力物をもらって勉強する。(有名レストランのシェフのお皿を舐めて味を覚えるみたいに)

寝るまも惜しんで、技術の習得に励んだ。隣の年下の先輩、滝さんが優しく丁寧に教えてくれた。現場での実務は彼が教えてくれた。彼の存在は大きかった、感謝している。

働き始めて、大阪本社への移動を命じられた。印刷業も年々業績が悪化してくるタイミングで、東京を縮小し大阪にクリエイティブを集約する狙いだった。

大阪鶴見にある本社は社員を会社の近くに住まわせ、延々と働かせる厳しい環境だと支社長から聞いていた。

それでも超優秀なアートディレクターの薫陶を受けられ、クリエイティブ陣は皆芸大・美大出身者という触れ込みだった。

【このままやっていても実力が付くまで時間がかかり過ぎる。どこかで無理してでも埋める環境に行かなかれば。いちかバチか。】

東京で就職して1年、慣れてきたところだが大阪に移ってやっていけるのか?不安も大きかった。土地勘もない。

兄に相談の電話をかける。青山一丁目駅を少し上ったところに、憩いの場所がある。そこで新青山ツインビルを見上げながら、電話をかけた。

自分の進路を決める大事な電話だった。

兄からは有無を言わせず「たった一年。まだ実力も何も身についてない。今のお前には大阪に行く以外の選択肢はない。いいじゃないか、独り身だし、大阪行けよ。」

ちょうどこの辺りの場所。芸能人も時々見かける。都会の空気を吸い、ただその雰囲気に麻痺していたのかも。

人生の帰路で、相談できる相手がいて良かった。上場企業で一流メーカー相手に仕事をする兄の説得力は絶大だった。

大阪に行くことに決めた33歳。まだまだ若手の部類だった。しばらくは、大阪の環境になれることと、大阪の街を楽しみ、変化していくダイナミズムを味わっていた。人数が多く、先輩も多くいて、ついていくだけで実力がついていくようだった。

大阪の会社ではこんな場面もあった。仕事量がもう少しゆとりがあればもっと愉しめたのに。

時は2010年頃、印刷業やグラフィックデザイン業界自体が、インターネットやWEB業界の発展により、少しづつ厳しくなってきたタイミングだった。

単価が下がり、売り上げをキープする為に、仕事量が増えた。若手デザイナーが会社への不満を爆発させ、後ろ足で砂をかけるように暴言を吐き「稲石さんもこんな所辞めた方がいいよ」捨て台詞を吐きと続々と辞めていった。

辞めていったデザイナーの年齢は24歳から32歳の若手だった。社内ではリーダーやチーフ格の人材だった。会社にとっては将来的にも痛手だったと思う。

彼らより少し年齢を重ね、彼らよりもデザイナー経験の短い私には、みんなのように流されて辞める選択肢はなかった。気分や流されて辞めるほど若くも無鉄砲でもなくなっていた。

立場を変えて考えてみれば、そこまで短絡的には考えない。経営者には経営者の悩みがあり、社員を守る大義がある。少しぐらいの倫理観を無碍にしても守べきものがある、という思いには、共感は出来ないが理解はできた。

辞めていった彼らは、自分には価値があると思っていた。さらに彼らにとって会社とは、社員を育て守り、ボーナスを払い、将来を約束する存在なのだと思っていたはずだ。

私は違うと思っていた。景気が悪くなれば社員を切り、待遇を下げ、過酷な労働環境に落とし込む。一概にそれを非難する気持ちはない。

私にはそこまで自分の能力に価値があると思っていなかった。ひたすらに謙虚だった。さらに、31歳で拾ってもらったという恩義がある。

だから、少なくとも自分は会社に恩義を返したい。辞めることを決めてから2年間は会社に少しでも利益が出るように歯車の一つになってボロ雑巾のように働くことに決めていた。

社員が辞める・補充はない。仕事量は減らない。どんどん自分に集まる。辞めない、仕事が捌けない、ミスが増える、上司や営業にギャン詰めされる。

残業時間はここに書けないぐらい。精神的にも追い詰められて、一時期やばかった。

(仕事の受け過ぎは良くない、仕事以上に自分の心と体の方が大事。)

人より遅いが、少しだけ仕事ができる社会人へと成長した季節

年齢は37歳になっていた。

デザイナーの仕事はかなりできるようになってきた。仕事量も増え、重要な案件も任されるようになり、コピーライティングも認められ、売れるカタログが作れるようになったが給料は5年間全く上がらなかった。

グラフィックデザイナー前夜。この章はこれで終わる。

デザイナーの就職が決まらない日々を重ねる最中、いろんなことに挫折してきたけれど、デザイナーになる夢だけは叶えたかった。

他のものが全然叶わなくても、夢を叶えた人生を生きたかった。

だから今、デザインやWEBの仕事で独立して生活できていることが、それだけで十分幸せに感じている。

60歳の還暦記念に贈ったCROSSのボールペンは父の遺品として手元に戻ってきた。それと兄からの就職祝いでもらったPAKERのボールペン。2本のボールペンを見て思う。家族に支えられ、見守られて今がある。日々を愉しみ、やるべきことをやる日々だ。

次回 ❸WEBデザイナー前夜につづく。WEB業界に移り、人生がさらに大きく動いていく。

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