これまで時柄前夜として連載してきたブログ、今回は❸Webディレクター前夜となります。
31歳から遅れてスタートしたデザイナーという仕事。ようやくデザイナーとして自信もつきはじめたが、グラフィックデザインや印刷物の価格が下がり競争が激化している現状。
デザイナーになった時に誓った「40歳までに独立する」という目標にはこのままでは届きそうにない。
40歳を目前に大きな賭けに出る。自分だけを信じて。
キングスポイント(人生の勝負どころ)
キングスポイントという言葉がある。
主にスポーツで使われるが、
試合中のある場面、このポイント(点数)をどっちが取るかによって試合の勝敗が決まってしまうような場面があるという意味だ。
そのキングスポイントを人生に当てはめると、おそらく男性の36歳頃から40代前半の転職では、人生という勝負の中での勝敗が分かれてしまうキングスポイントかもしれない。
もちろん例外はあるが、40代を過ぎると圧倒的に転職は難しくなるので(特にWeb業界の未経験者では)、ここが勝負どころというのは間違いない。
結論から言ってしまえば、私はこのキングスポイントをものにした。40歳を前にWEB業界へ転身したことで、ビジネスマンとしての勝ちを辛くも拾ったのだ。
デジハリ大阪梅田校でWebを学ぶ
スタッフさん・先生・仲間たちとの出会いは人生を変える大きな転機になった。
「ここが社会人学校か。。」ホテルのロビーのようなおしゃれでラグジュアリーな空間だった。赤いソファーがあり、自習用のPCが点在していて、生徒同士が楽しげに雑談している。
楽しげな雰囲気に期待感が増してくる。
20代の中盤から30代にかけての女性が多く、男性は20代後半から40代と幅広い層が通っていた。講師の先生も現役のWebクリエイターで世代も近くて若い人ばかりだった。校舎の中はWeb業界の活況を表すように活気に満ちていた。
転職したい者、独立したい者、キャリアアップしたい者、クリエイティブ業に進みたい者、そして自分を変えたい者、動機は様々だが皆、更なるステップアップを目指してWebの技術を身につけにきていた。
ここでの経験は、自分の活かし方や自分の生き残る道に気づかせてくれた。そして才能豊かな同期や絵の才能に目覚めて画家になってしまう外村さん、刺激を与えてくれた仲間や丁寧に教えてくれた講師の先生。背中を押してくれたスタッフの方々。
ここでの体験は自分の中での宝物と言えるかもしれない。
Webはチーム戦だった。ディレクター・Webデザイナー・エンジニアが中心で、そこにカメラマンやライター・マーケターなどの専門職が案件ごとにアサインされていくチーム戦の様相だった。
諦めることと、選択すること。選択することで道が開けてくる。
それを知ったとき、Webディレクターという自分の天職とも言える職業に出会えたのだ。
デジハリでの経験はまたいつか詳しく書きたいが、ここに通い、ここで色々な人に出会い、いろんな体験をして人生が変わっていった。
先輩達の成功体験や成功事例が我々を勇気付けた。
Webを学べば未来が開ける。Webの実力を身につければ、自分の可能性が開ける。ここにはそんな明るい空気が充満していた。
ここでもう一度クリエイティブ業界で頑張る意欲が湧いてきて、自分が独立後に目指すスタイルが固まった気がする。
ここから40歳独立まで、追い風を受けて、急激に人生が動き出す。
ゲームチェンジ(ゲームのルールが変わる?)
グラフィックデザイン・印刷業界からWeb業界に転身した私が実感したのがこの言葉だ。
ルールや評価やプロセスや出世のスピードなど何もかもが違った。必要とされるスキルが違い、そしてその仕事で使う知識やスキルが刷新していくスピードが違い、さらに平均年齢が圧倒的に若いということ。
ゲームのルールが変わったのだ、自分自身のこれまでのスキルセットをカスタマイズし、アップデートし続けないといけない。どうやらそれが勝負を分けることになりそうだ。
職業を変えるためにデジタルハリウッドというWebの専門学校に入り、カリキュラムをクリアし、Web業界に38歳で転職した。
これまで培った、デザイン力・ライティング・就職活動のテクニック・面接でのコミュニケーション力・ポートフォリオの企画などの全てを動員し、厳しい中途採用をクリアし、ITベンチャーに好条件の転職を獲得した(入社後大変な目にあったが。。)
その時に2回の面接をして頂いたエムハンドの社長からは「●●●人に一人の存在だと思ってます。」と大変評価していただいた。努力は報われると言われるが、私の場合は就活の応募書類や面接力のスキルが、人生のキングスポイントで勝ちを拾う結果を導いた。
転職活動はじっくり4ヶ月ほどの時間をかけた。複数の会社から内定をいただき、そのうちの2社で入社体験をした。選んで選んでその中で一番希望条件が揃っている会社に決めた。
Web業界は成長業界だから、上りのエレベーターだと思ってもらっていい。少し遅れたスタートだけれども、これまでのスキルを生かして経験を積んでいけば将来は明るい。
2013年の2月1日が京都支社への初出社だった。6時半頃だったと思う。
オレンジ色の帯が広がり、次第に明るくなっていく。冬の朝日が登り、凍てつく澄んだ空気の中に大阪の街が抒情的に見えた。
少し早めに出ようと思い、不安な気持ちもあったが、京阪線の千林駅ホームで朝日が登るところを見られて「もう、大丈夫。」訳もなくそんな気持ちに満たされた。
これまでの20年間の学歴や職歴のコンプレックスみたいなもののしがらみから解放され、これからは実力だけで評価されるしがらみのない自由な人生が始まることを意味していた。
ITベンチャーでの経験・WEBディレクターという仕事
上場を目指すITベンチャーで働き始める38歳。まさか自分の人生の中で、そんな小説やドラマの設定みたいな経験をするとは1年前には想像もしていなかった。
無理なことを無理にしないという、常にそういう負荷がかかっていた。その環境自体は自分の成長にはいいが、かなりの負担があった。
Webの仕事の大半はここで学んだ。グループ会社のエムハンドでは、システマチックで論理的な組織運営と育成システムの中でWebディレクションの薫陶を受けた。
この頃のことはあまりにも脳みそを使いすぎて、ほとんど覚えていない。
京都で1年余りを過ごし、新規サービスに必要な100以上のポータルサイトの制作がひと段落したタイミングで、名古屋本社に転勤の辞令がでた。
今度は京都支社の制作部署から、本社のWebマーケティング部署への異動だった。
短い期間だったがWeb業界での制作業務から、SEO・SEM(広告)中心の業務まで、経験できたことは幸運で最初から望んだことだった。マーケティング部署には、大阪・福岡・東京からそれぞれの一流マーケターを招聘し、研修やコンサルが実施され、さまざまな知識やスキルを学ぶことができた。
名古屋に本社があることは「運が良ければ愛知県に帰ることができるかもしれない」という期待もあった。
本社に異動は既定路線ではなく、運が良ければの話だ。
実家のある岡崎に戻ることにし、15年ぶりに故郷岡崎にようやく戻ってくることができた。
20代の後半から大阪時代の苦しいとき。いつか地元岡崎に帰り、デザイナーやクリエイターとして、地域の人たちに求められ力を発揮できる状態で戻りたい。行政の仕事に関わったり、地域に貢献できるのを夢見ていた。それが支えだった。
その活躍を両親に見せたかった。(晩年の父と過ごせた6年はかけがえがない)
15年ぶりに戻ってきた故郷 OKAZAKI(岡崎)
岡崎に戻ってきて、初めての休日に自転車で街を走り、浦島太郎のように15年で変わった街を散策した。
岡崎城の展望台に登ると、ふるさとが一望できた。
19,20歳の頃の思い出が蘇る。帰ってきたという空気を思う存分に吸い込んだ。途中生きるか死ぬかの修羅場もあったが、とにかくプロのクリエイターとして健康体で生還したのだ。
それだけで十分だった。
景色や人の流れは変わったが、その他は何も変わらない。両親が近くにいて、中・高の同級生の友人もたくさんいる。
長い修行期間を東京・大阪で過ごしてきた自分には、この環境は当たり前じゃなかった。
それだけで幸せだった。
それだけで自分の人生には大きな意味のある達成だった。
ここからまたやり直そう。自分が望む人生を作っていこう。
この20年間無理だと思いながらも描き続けた、クリエイターとしての独立、職業人としての仕事面・経済的な成功を実現するのだ。そんな熱い想いがじわじわと湧いてきた。
トキガラデザイン初期メンバー、才能豊かなデザイナー森との出会い。さらに運命が動き出す。
連載ブログ。時柄前夜vol5 最終話❹時柄前夜に続く。
コメントを残す